カスハラのマニュアルを整えて、現場に周知した。相談窓口も設けた。やるべきとされることは、一通り揃えたはずです。
それでも、現場の声はこうです。「どこから言っていいのか分からない」。その一方で、ごく普通の要望にまで「これもカスハラですよね」と持ち込まれる。言ってほしいことは相談されず、言わなくていいことばかりが持ち込まれる。打ったはずの対策が、両極に振れて空回りしている——そんな状態に、心当たりはないでしょうか。
この二つは、正反対に見えて、実は同じ一つの原因から起きています。そしてその原因は、新しい制度を足すことでは解けません。すでに打った対策を、現場で機能させる回路が通っていないだけなのです。
回路の通し方は、大きく4つです。カスハラかどうかの判断を、最初に受けた従業員一人に背負わせない。起きた出来事を、判断基準とあわせて現場に共有する。窓口に相談が寄せられたときの、最初のひと言を決めておく。そして、一度で終わらせず、触れる回数で定着させる。どれも新しい対策ではなく、いまある対策を機能させるための話です。
本記事では、令和5年度の国の実態調査のデータと、研修や現場の診断で繰り返し見てきた場面をもとに、この「打ったのに動かない」がなぜ起きるのかを解きほぐし、明日の会議から着手できる運用の直し方を整理します。読み終えるころには、次に何から手をつければいいかが見えているはずです。

対策は整っているのに、現場は動いていない
マニュアルはある。相談窓口もある。それでも「機能している」とは言い切れない——この感覚は、対策を任された現場ほど強く持っているのではないでしょうか。
現場では、二つの逆向きのことが同時に起きています。
一つは、相談されないケースです。お客様から理不尽な対応を受けた従業員が、それを窓口に相談しないまま抱え込む。あとで話を聞くと、「このくらいで騒いだら、自分の対応が悪いと思われる」と言う。相談すれば評価が下がるのではないか、処遇に響くのではないか、という不安もよぎる。窓口は目の前にあるのに、そこへ向かう一歩が出てこない。
もう一つは、逆に持ち込まれすぎるケースです。ごく普通の要望や、こちらの対応への正当な指摘まで、「これもカスハラですよね」と持ち込まれる。「言葉遣いを直してほしい」「これを調べてほしい」——本来なら業務の範囲で受け止める内容が、カスハラとして管理者のもとに運ばれてくる。一件ずつ判断を求められて、現場が回らなくなっていく。
相談してほしいことは相談されず、しなくていいことばかりが持ち込まれる。マニュアルを配り、窓口を設けても、この二つは消えません。むしろ、対策を「整えた」あとにこそ、くっきり見えてくる状態です。
では、なぜこうなるのでしょうか。片方は従業員の意識が低いから、もう片方は従業員が過敏だから——そう片づけてしまいたくなります。しかし、この二つは別々の問題ではありません。同じ一つの原因から、逆方向に噴き出しているだけなのです。
「言えない」は従業員の意識の問題ではない
窓口が使われないと、つい「従業員の意識が低いから声を上げないのだ」と考えたくなります。しかし、相談しないことには、相談しないなりの理由があります。
ある従業員が、お客様から理不尽な要求を受けていた。見かねて「なぜ相談しなかったのか」と聞くと、こう返ってきた。「このくらい対応できて一人前だと言われてきたので、相談するのは違うと思って」。かつて先輩や上司に相談したとき、そう返された。それ以来、自分でもそう考えるようになり、「このくらいは」と抱えるのが当たり前になっていた——。研修や現場の診断で、こうした声は珍しくありません。
ここで起きているのは、意識の低さではありません。むしろ逆で、「自分がなんとかすべきだ」という責任感が、申告を押しとどめています。相談することが、被害の報告ではなく、自分の未熟さを認めることにすり替わってしまっている。そこに「相談したら評価が下がるかもしれない」という不安が重なれば、抱え込むほうが合理的な選択になります。
国の調査にも、この構図は表れています。
顧客等からの著しい迷惑行為を受けた後の行動として、「何もしなかった」と回答した人のうち、その理由として最も多かったのは「何をしても解決にならないと思ったから」で56.1%であった。
出典:厚生労働省委託事業「令和5年度 職場のハラスメントに関する実態調査報告書」(PwCコンサルティング合同会社、令和6年3月)P.138 報告書(PDF)
補足しておくと、カスハラはむしろ相談する人のほうが多い被害です。社内の上司に相談した人が最も多く、他のハラスメントのように「何もしなかった」が最多になるわけではありません。それでも、被害を受けた3人に1人ほどは動かないまま終えていて、その大半が「どうせ解決しない」と感じている。ここが見落とされがちなところです。
つまり、窓口が使われないのは、存在を知らないからでも、意識が低いからでもない。「相談しても変わらない」「相談したら自分が損をする」と感じられている限り、どれだけ立派な窓口を用意しても、そこへ向かう一歩は出てこないのです。申告のコストが、従業員個人に寄りかかりすぎている。ここが「言えない」の正体です。
「なんでもカスハラ」も、根は同じところにある
「言えない」の反対側で起きているのが、「なんでもカスハラ」です。
ちょっとしたクレームでも、「これはカスハラではないか」と管理者に持ち込まれる。「言葉遣いを直してほしい」といった、自分の対応への指摘まで、カスハラとして扱われる。「これを調べてほしい」という、少し手間はかかるが正当な依頼も、線を越えた要求として持ち込まれる。一件ずつ「これはカスハラか、そうでないか」の判断を求められて、管理者の手が止まる。
ここで気をつけたいのは、こうした従業員を「過敏だ」「わがままだ」と片づけないことです。持ち込みすぎてしまう従業員も、たいていは真面目です。「おかしいと思ったら相談するように」と言われたことを、そのまま実行している。ただ、その従業員の中には「どこまでが受け止めるべき要望で、どこからがカスハラなのか」を測る物差しがない。だから、判断に迷うものを、すべて「カスハラかもしれない」の側に寄せてしまう。
見落とされがちなのは、自分への指摘や注意をカスハラと受け取るケースです。これは、パワハラの過剰な申告と同じ構図をしています。上司からの正当な指導を「パワハラだ」と受け取ってしまうのと、お客様からの正当な指摘を「カスハラだ」と受け取ってしまうのは、根が同じです。どちらも、正当なものと不当なものを区別する基準が、受け取る本人の側にしかない。基準が本人の感じ方に委ねられている限り、同じ言葉が、ある人には指導に、別の人には攻撃に見えてしまいます。
ここまで来ると、「言えない」と「なんでもカスハラ」が、実は一つの原因から出ていることが見えてきます。
どちらも、「これはカスハラなのか」という判断を、最初にその場面に出会った従業員一人に背負わせている。その一点から、逆方向に噴き出しているだけなのです。判断の物差しが本人の中にしかなければ、責任感の強い人は「自分がなんとかすべきだ」と抱え込む方向に振れ、真面目に指示を守る人は「迷ったら全部カスハラとして訴える」方向に振れる。振れる向きが逆なだけで、原因は一つです。
だとすれば、打つべき手も一つに定まります。判断の主体を、従業員から組織に移すことです。次の章から、その具体的なやり方を見ていきます。
カスハラの判断を、最初に受けた人に背負わせない
過少と過剰が同じ根から出ているなら、手の打ちどころも一つです。「これはカスハラか」という判断の主体を、従業員から組織に移す。ここから先は、そのための具体的な運用の話に入ります。
まず確かめておきたいのは、何がカスハラに当たるのか、という判断の中身です。正当なクレームと不当な要求をどう区別するかについては、別の記事で3つの軸に整理しました。ここではその中身には立ち入らず、「その判断を、誰が、どの場面で担うのか」に絞って考えます。判断の基準があることと、その基準を現場で使える形にすることは、別の問題だからです。
現場でよく起きているのは、基準は決めたのに、それを使う場面が一次対応者個人に委ねられている状態です。お客様の要求を目の前にした従業員が、その場で「これはカスハラか、応じるべき要望か」を判断し、対応まで引き受けている。判断と対応が、同じ一人に乗っている。これでは、これまで見てきたとおり、抱え込む方向にも、なんでも訴える方向にも振れてしまいます。
ここで有効なのが、「迷ったら、その場で判断せずに相談してよい」と決めておくことです。一次対応者の仕事を「カスハラかどうかを見極めること」から、「迷うものを組織に渡すこと」に変える。見極めの責任を個人から外し、組織が引き取る。こうすると、抱え込みも、過剰な持ち込みも、同じ入り口で受け止められます。
お客様と直接向き合う対人サービス業では、この「誰が判断するか」がとりわけ重くのしかかります。相手が要求してくる内容も、その場の関係性も一様ではなく、どこまで応じるべきかの判断が、その場ごとに変わるからです。たとえば介護の現場なら、行為の相手がサービスを利用する本人のこともあれば、そのご家族のこともあります。ご家族からの強い要望をどこまで受けるか、一次対応者が一人で判断するには重すぎる場面が続きます。加えて「この仕事なんだから、なんとかするのも自分の役目だ」という空気があると、なおさら抱え込みに向かいます。だからこそ、判断を個人に負わせない仕組みが要ります。
こう説明すると、「では基準を細かく決めて、現場を縛ればいいのか」と受け取られることがあります。しかし、ここでの基準は、現場を「縛る」ためのものではありません。むしろ逆で、現場を「守る」ためのものです。細かい場合分けで従業員の動きを管理するのではなく、「迷ったら一人で抱えなくていい」という逃げ道を用意する。基準の役割は、従業員を判断の重さから解放することにあります。

出来事と一緒に「判断基準」も共有する
判断を組織に移すといっても、判断する場を一つ増やすだけでは足りません。次に同じような場面に出会ったとき、現場がまた一人で抱え込まないためには、「この件はこう考えて、こう判断した」という中身まで、現場に返していく必要があります。
やり方として現場でよく機能しているのは、実際に起きた出来事を、個人が特定できない形に加工して共有することです。誰が受けた被害かがわかる形だと、共有された側は身構えますし、当事者も「自分のことが晒される」と感じて、次からは相談しにくくなる。名前や細部を伏せ、出来事として扱えるようにすると、それは告発ではなく、みんなで検討できる事例に変わります。
そのうえで欠かせないのが、出来事だけでなく、なぜそう判断したのかもあわせて共有することです。「この対応はカスハラと判断した」「こちらは正当な要望として受けることにした」——結論だけでなく、なぜそう判断したのかを言葉にして渡す。これがあると、次に似た場面に出会った従業員は、自分一人の感覚ではなく、組織が示した判断基準を手がかりに動けます。判断の物差しが、本人の中だけにある状態から、組織の側に置かれた状態に変わっていきます。
ここで、先ほどの「なんでもカスハラ」の話が効いてきます。「周知しすぎると、かえって、わけのわからない訴えが増えるのではないか」——対策を進める管理者から、よく出てくる心配です。たしかに、出来事だけを共有すれば、「あれもカスハラなら、これもそうだ」と過剰な持ち込みが増えかねません。しかし、判断基準までセットで共有すれば、逆のことが起きます。従業員の側に「どこまでが受け止める要望で、どこからがカスハラか」を測る物差しが育つからです。過剰な訴えは、周知のしすぎで増えるのではなく、判断基準が抜けたまま出来事だけが伝わったときに増える。周知の中身次第で、結果は反対に振れます。
実際、国の調査でも、勤務先の取り組みを高く評価している人ほど、被害を受けたときに上司へ相談した割合が高く、何もしないまま終える割合が低いという傾向が見えています。取り組みが「ある」だけでなく、それが信頼できる形で回っているかどうかで、従業員が声を上げるかどうかは変わります。共有のしかたは、まさにその信頼を左右するところです。

窓口の最初のひと言を決めておく
判断を組織に移し、判断基準を共有していく。その入り口になるのが、相談窓口です。ところが、この入り口でつまずくことが少なくありません。
窓口が使われるかどうかは、相談したときに何が返ってくるか、で決まります。ここまで見てきたとおり、従業員が申告をためらうのは、「相談しても変わらない」「相談したら自分の評価に響く」と感じているからです。だとすれば、その感じ方を変える最初の一手は、相談してきたときの、こちらの反応を決めておくことです。
具体的には、「相談してくれてありがとう」を、管理者の標準の反応にする。相談を受けた管理者が、まず何を言うかを、あらかじめ揃えておくということです。相談した瞬間に「そのくらい対応してほしい」「なぜもっと早く言わなかったのか」と返されれば、その従業員は二度と相談しません。周りもそれを見ています。逆に、相談してくれたこと自体を、まず受け止める反応が返ってくれば、「ここは相談していい場所だ」という感覚が、少しずつ現場に広がっていきます。申告のコストを下げるというのは、制度をいじる前に、この最初のひと言を変えることなのです。
この一手を軽く見ないほうがいい理由があります。窓口で受け止められなかった相談は、消えるのではなく、社外に流れます。「会社が対応してくれない」と感じた従業員は、労働基準監督署や弁護士といった外部の窓口に相談先を求めます。あるいは、相談すること自体を諦めて、職場を去ります。社内で相談されないものが、見えないところで動き出しているのです。
そして、この状態を放置することには、もう一つのリスクがあります。従業員がカスハラで心身をすり減らしているのを、会社が把握できる仕組みを持ちながら機能させていないとすれば、それは従業員の安全に配慮する義務——安全配慮義務の観点からも、望ましい状態とは言えません。窓口を設けることと、窓口を機能させることは、別のことです。設置は、義務を果たすための入り口であって、ゴールではない。カスハラ対策として何を整えるべきかは別の記事で扱いましたが、そこで挙げた項目は、置いただけでは働かない。動かして初めて、意味を持ちます。
管理者一人で、制度を作り替えることはできないかもしれません。しかし、相談を受けたときの最初のひと言を決めることは、明日からでもできます。ここが、対策を「箱」で終わらせないための、いちばん小さくて確実な一歩です。

一度で終わらせない、触れる回数で定着させる
ここまでの手を打っても、一度きりで終わらせては、元に戻ります。むしろ、いちばん見落とされやすいのが、この最後の一点かもしれません。
思い出してみてください。ガラケーからスマートフォンに変わったとき、最初は戸惑った人も少なくないはずです。画面をなぞる操作に慣れず、前の機種のほうが使いやすいと感じた時期もあったのではないでしょうか。それが今では、考えるより先に指が動く。特別な訓練をしたわけではなく、毎日何度も触れているうちに、いつのまにか手に馴染んでいた。人が新しいやり方を身につけるのは、たいていこういう過程をたどります。
カスハラの対応も、同じです。マニュアルを一度配って、会議で一度説明した。それで「周知した」ことにはなりますが、身についたことにはなりません。一度触れただけの新しいやり方は、翌週にはもう元のやり方に戻っている。マニュアルが読まれないのは、多くの場合、中身が悪いからではなく、最初に一度告知されたきり、その後で触れる機会がないからです。
だから、決めた対応方針も、共有した判断基準も、繰り返し現場に戻していく必要があります。実際に起きた事例を、折にふれて共有する。朝礼や定例の会議で、短くでも触れる。「前にこういう件があって、こう判断しましたね」と、思い出す機会を作る。一回の情報量を増やすよりも、触れる回数を増やすほうが、定着には効きます。
「マニュアルも窓口も作った。これ以上、何をすればいいのか」——対策を打った管理者から、よく出てくる問いです。その答えは、たいてい新しい施策の中にはありません。すでに打った対策を、繰り返し現場に戻し続けること。派手さはありませんが、対策が機能するかどうかは、この地道な反復にかかっています。
対策は、打った後の運用で決まる
カスハラのマニュアルを整え、相談窓口を設けた。それでも現場が動かないのは、対策そのものが足りないからではありません。「これはカスハラか」という判断を、最初に受けた従業員一人に背負わせたままにしているからです。
判断が個人に委ねられている限り、責任感の強い人は「自分がなんとかすべきだ」と抱え込み、真面目な人は「迷ったら全部カスハラだ」と訴えてくる。相談してこないことと、なんでも訴えてくること。正反対に見える二つは、同じ一つの根から出ています。
だとすれば、打つ手も一つの方向に定まります。判断の主体を、個人から組織に移すことです。迷ったら一人で抱えずに相談してよいと決める。起きた出来事を、判断基準とあわせて共有する。相談を受けたときの最初のひと言を、「相談してくれてありがとう」に揃える。そして、一度で終わらせず、触れる回数で定着させる。どれも新しい対策ではなく、すでに打った対策を機能させるための話です。
ただ、ここまで読んで、こう感じた方もいるかもしれません。理屈はわかった、でもこれを現場全員に伝えて、繰り返し、根づかせるところまでを、自分一人でやりきるのは骨が折れる、と。そのとおりです。判断基準を現場に共有し、定着するまで繰り返す——この一番手間のかかる部分は、管理者が一人で背負う必要はありません。
その伝える役割を、研修が引き受けます。カスハラの新しい対応策を教える研修ではなく、いま打っている対策を現場で機能させるために、判断基準をそろえ、従業員一人ひとりに落とし込むための研修です。「対策は打ったのに動かない」という手応えに心当たりがあれば、一度ご相談ください。何から手をつけるのがいいか、現場の状況にあわせて一緒に考えます。

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